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今川家

今川義元 いまがわ よしもと (1519~1560) 今川家
 今川家11代当主。氏親の五男で幼名は方菊丸。母は正室の寿桂尼。駿河、遠江を領有した戦国大名で「海道一の弓取り」といわれた名将。若くして出家し、梅岳承芳と称して臨済宗の僧となっていたが、長兄・氏輝と次兄・彦五郎の急死後、還俗して義元と名乗り、異母兄・玄公恵深との家督争い「花倉の乱」に勝利して当主となる。その後、軍師に太源雪斎を据えて父・氏親が制定した分国法「今川仮名目録」を補訂した「今川仮名目録追加21条」を制定して国内を安定させるとともに、一族の専横によって三河を追われていた松平広忠家康の父)を助けて臣従させるなど尾張東部にまで勢力を広げた。1554年に甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と婚姻による甲相駿三国同盟を結び北と東の憂いを絶つと、尾張の織田信長と対峙する。尾張を統一したばかりの信長に対して圧倒的な国力を誇っていたが、1560年に2万5千の軍勢で尾張に侵攻した際、各砦の攻略で兵を分散したところを信長自ら率いる2千の軍に急襲され桶狭間に散った。


今川氏親 いまがわ うじちか (1471?~1526) 今川家
 駿河の守護大名・今川家9代当主。母は北条早雲の姉(妹とも)・北川殿。正室は寿桂尼。幼い頃に父・義忠が遠江での戦で討死し、従兄弟との間で家督争いが起こるが、早雲の助力を得て家督を継いだ。その後も早雲の協力を得て領土を拡大し、室町幕府10代将軍・足利義稙から遠江守護に任じられると、遠江に侵攻して斯波家に勝利し、遠江を平定した。内政面では分国法「今川仮名目録」を制定。正室・寿桂尼が公家出身であることから京の文化も取り入れ、今川家を守護大名から戦国大名へと押し上げるきっかけを作った。晩年は中風を患っていたといわれる。


今川氏輝 いまがわ うじてる (1513~1536) 今川家
 今川家10代当主。氏親の嫡男。母は正室・寿桂尼。幼くして父が病没したため、母・寿桂尼の後見を受けて当主となった。相模の北条氏綱と組んで、甲斐の武田信虎と戦うなどしたが、24歳の若さで謎の急死を遂げた。同日に高位後継者で次弟の彦五郎も謎の死を遂げたため、毒殺・暗殺説が疑われている。死後、氏輝の弟である梅岳承芳と玄広恵探との家督争い「花倉の乱」が起こり、勝利した梅岳承芳が今川義元と名を変え家督を継いだ。


今川氏真 いまがわ うじざね (1538~1615) 今川家
 今川家12代当主。義元の嫡男。正室は北条氏康の娘・早川殿。和歌、連歌、蹴鞠に通じた文化人として知られる。父・義元が桶狭間の戦いで討死したため家督を継ぐ。しかし、父親ほどの求心力がなく、徳川家康をはじめ多くの離反者を招いた。1568年になると武田信玄、徳川家康の侵攻を受けるようになり、最後は掛川城で抵抗するも家康に降伏し、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は義父・北条氏康を頼るが、氏康が亡くなると家康に庇護を求め、江戸幕府のもと今川家は高家として存続した。


朝比奈信置 あさひな のぶおき (1528~1582) 今川家
 今川家臣。駿河朝比奈家の出身で掛川城主である遠江朝比奈家の泰能、泰朝とは祖を同じとするも別系統の家系。1548年、尾張の織田信秀と戦った小豆坂の戦いでは先陣をつとめ勝利に貢献した。1560年、桶狭間の戦いで主君・今川義元が討死し、義元の子・氏真が跡を継いでも今川家を支えたが、1568年に続き翌69年にも武田信玄が駿河に侵攻してくると信玄に帰順した。信玄死後も勝頼に仕え駿河先方衆の筆頭として長篠の戦いにも参加。その後、持船城主となって織田信長徳川家康甲州征伐を迎え、家康に降伏する。勝頼が天目山で自刃し武田家が滅亡すると信長の命により自害した。


朝比奈泰朝 あさひな やすとも (1530~1582?) 今川家
 今川家臣。掛川城主。泰能の子。母は寿桂尼の姪。父の死を受けて家督を継ぐ。1560年の桶狭間の戦いでは鷲津砦を攻略するが、主君・義元の討死により撤退した。義元の死後、今川家を離反する者が続出する中で義元の跡を継いだ氏真(義元の子)に仕え続け、1568年に武田信玄徳川家康の侵攻が始まると、信玄に駿河を追われた氏真を掛川城に迎えた。同年末になると家康に城を包囲され、5ヶ月に及ぶ籠城戦を展開するが援軍が望めず、氏真と共に降伏した。その後は氏真と共に北条氏康を頼る。氏康の死後、氏真は家康の庇護を受けることになるが、これには従わず以後の消息は不明となる。子孫は徳川四天王のひとり・酒井忠次に仕えたといわれる。


朝比奈泰能 あさひな やすよし (1497~1557) 今川家
 今川家臣。掛川城主。泰朝の父。氏親氏輝義元の三代に仕えた。義元の時代には家中の政治、軍事における最高顧問・太源雪斎に次ぐ重臣として重用される。掛川城主として遠江、三河方面を担当し、1548年の小豆坂の戦いでは総大将となった雪斎の副将として参加し勝利に大きく貢献した。1557年に病没。55年には雪斎も亡くなっており、二人の重臣の死は、こののち尾張の織田信長との戦いに向かって行く義元にとって大きな痛手となった。


飯尾連竜 いいお つらたつ (1526~1565) 今川家
 今川家臣。遠江引馬城主。桶狭間の戦い後、三河で独立した徳川家康と通じるが、今川軍に攻められ降伏和睦した。しかし、連竜を信じ切れなかった今川氏真に駿府に呼び出され今川館(のちの駿府城)で謀殺された。


井伊直親 いい なおちか (1535~1563) 今川家
 遠江井伊谷の国人。直満の子。直政の父。直盛の従弟。正室は奥山家の娘。幼名は亀之丞。直盛の娘(直虎)の許婚だったといわれる。父・直満が讒言により今川義元に殺されると一時信州へ逃れるが、のちに帰還し、桶狭間で討死した直盛の跡を継ぎ井伊家の当主となった。しかし、遠州錯乱といわれる混乱期の中、家臣・小野政次の讒言で徳川家康との内通を疑われ、今川氏真のもとへ弁明に向かう途中、今川家の重臣・朝比奈泰朝に殺された。


井伊直平 いい なおひら (1479?~1563) 今川家
 遠江井伊谷の国人。直盛直親の祖父。最初は遠江守護・斯波家と共に今川家と戦ったが、敗北して今川家臣となった。桶狭間の戦いの時には隠居の身であったが、当主で孫の直盛が討死し、跡を継いだ直親も内通を疑われて今川氏真に謀殺されると、幼い虎松(のちの直政)の後見人となって事実上当主に復帰した。犬居城主・天野景泰、元景親子が氏真に反旗を翻すと、氏真の命で高齢を推して出陣するが、社山城攻めに向かう途中で急死した。引馬城主・飯尾連竜による毒殺という説がある。


井伊直満 いい なおみつ (?~1545) 今川家
 遠江井伊谷の国人。直平の子。直親の父。直盛の叔父。初めは父と共に遠江守護・斯波家に協力して今川家と戦ったが、敗れて降伏し今川家臣となった。井伊家の当主で甥の直盛に子がいなかったため、自身の子・直親を直盛の養嗣子にしたが、それに反対した家臣・小野政直の讒言によって弟・直義ともに駿府に呼び出され、今川義元に謀殺された。


井伊直宗 いい なおむね (?~1542) 今川家
 遠江井伊谷の国人。直平の嫡男。直盛の父。初めは父と共に遠江守護・斯波家に協力して今川家と戦ったが、敗れて降伏し今川家臣となった。父の隠居により家督を継くが、今川義元に従って参戦した三河田原城攻めで討死したといわれる。家督は子の直盛が継いだ。


井伊直盛 いい なおもり (1526?~1560) 今川家
 遠江井伊谷の国人。直宗の子。父・直宗が三河田原城攻めで討死したため家督を継いで井伊谷を治めた。1560年、今川義元に従って参加した桶狭間の戦いで義元と共に討死する。直盛の死後、井伊家の成人男子はことごとく遠州錯乱と呼ばれる混乱期の中で非業の死を遂げたため、最後は直盛の娘が直虎と名乗って一時的に家督を継いだ。


小野政次 おの まさつぐ (?~1569) 井伊家
 井伊家臣。政直の子。道好の別名もある。父の死により家督を継ぐ。父・政直が讒言で井伊家の一門・井伊直満の謀殺に加担した経緯から、直満の子・直親とは確執があり、井伊谷横領の野心もあったといわれる。直親が井伊家の当主となると、父と同様、直親を讒言によって死に追いやり、井伊家を支えた忠臣・中野直由が引馬城攻めで討死すると、今川氏真の後押しを受けて井伊谷を手にいれた。しかし、氏真が武田信玄徳川家康に攻められ勢力を失うと、家康の命によって動いた井伊谷三人衆(近藤康用鈴木重時菅沼忠久)に敗北。のちに捕らえられ処刑された。


小野政直 おの まさなお (?~1554) 井伊家
 井伊家の家老。政次の父。井伊直満の子・直親が井伊家の当主・直盛の養嗣子になることに強く反対し、今川義元に謀反の兆しがあると讒言して直満を謀殺した。その後、直親の殺害も試みるが、事前に危機を察知され逃げられた。家中での影響力が大きく、直親は政直が亡くなるまで井伊谷に帰還することができなかった。


中野直由 なかの なおよし (?~1564) 井伊家
 井伊家臣。中野家は井伊家の庶流。庶流のなかでも井伊家に近かったことから歴代の当主、直平、直盛、直親から信頼された。1560年、ときの当主・直盛が桶狭間で討死すると、直盛の跡を継いだ直親の後見役となる。以前から井伊谷の横領を狙っていた同じ井伊家の家臣・小野政次の抑えとして重役を担っていたが、今川家に反旗を翻した飯尾連竜を討つために参戦した引馬城攻めで討死してしまい、政次の専横を許す結果となった。


岡部親綱 おかべ ちかつな (?~1562) 今川家
 今川家臣。元信の父。今川家10代当主・氏輝の側近。氏輝の急死後に起きた今川家の家督争い花倉の乱では、梅岳承芳(のちの今川義元)を支持。梅岳承芳と敵対した玄公恵探方の拠点・上ノ方城を落城させて梅岳承芳の家督相続に貢献し感状を与えられた。


岡部元信 おかべ もとのぶ (?~1581) 今川家
 今川家臣。親綱の子。遠江、三河の平定に貢献し、今川家が尾張東部まで勢力を広げると鳴海城在番となった。桶狭間の戦いでは、主君・義元が討たれた後も鳴海城に籠ってよく戦い、義元の首をもらい受けることを条件に開城して駿河に帰国した。義元死後も氏真に仕えたが、武田信玄の駿河侵攻で氏真が駿河を追われると降伏して武田家臣となる。信玄が亡くなると引き続き勝頼に仕え、勝頼が遠江高天神城を攻略すると城代に任命された。長篠の戦い後、武田家が衰退していくなかで徳川家康の侵攻を幾度か撃退したが、次第に抗しきれなくなり最後は城を打って出て討死した。元信は、勝頼に後詰(援軍)を要請していたが得ることができなかった。高天神城へ後詰ができなかったことが、諸将の武田家離反に拍車をかけ、甲州征伐が始まる一因になった。


岡部正綱 おかべ まさつな (1542~1583) 今川家
 今川家臣。岡部家(元信とは別家)は今川家の人質だった竹千代(のちの徳川家康)の世話を度々していたといい、同い年であった正綱は家康と親交を深めたという。1568年、武田信玄が駿河に侵攻してくると頑強に抵抗したが、最後は降伏し武田家臣となった。その後、信玄の西上作戦に参加するなど活躍したが、1582年に織田信長、家康による甲州征伐が始まると穴山信君(梅雪)と共に家康に内通し、武田家が滅亡したのちは平岩親吉と共に甲斐の支配体制確立に尽力した。


関口親永 せきぐち ちかなが (1523~1562?) 今川家
 今川家臣。今川家の祖・今川氏国の子・経国から始まる今川刑部少輔家の当主。駿河持船城主。諱は義広、氏興、氏広、氏純と様々ある。妻は、今川義元の妹(養妹、井伊直平の娘とも)で、娘は徳川家康の正室・瀬名姫(築山殿)桶狭間の戦いで義元が討死した後も跡を継いだ氏真に仕え、衰退していく今川家を支え続けたが、1562年に娘婿である徳川家康が今川家より離反独立したため内通を疑われ切腹を命じられた。しかし最近では1566年に氏真が記した文書に親永と思われる名があり、生存していたという説もある。


太源雪斎 たいげん せっさい (1496~1555) 今川家
 今川家臣。駿河の国人・庵原家の出身で臨済宗の僧。京の建仁寺で修業したといわれる。駿河守護・今川氏親に招かれて当時出家していた五男・梅岳承芳(のちの義元)の教育係となる。8代当主・氏輝(義元の兄)が急死すると、軍師として義元を支え、玄公恵深との家督争い「花倉の乱」を勝利に導き義元の家督相続に貢献した。内政では「今川仮名目録追加21条」の制定に尽力、外交では甲相駿の三国同盟を成立させるなど内外政で活躍するだけでなく、兵法軍学にも通じた武将としても有能で、時には陣頭に立ち、三河、尾張東部まで勢力を広げるのに貢献した。しかし、織田信長との全面対決を前に病没する。もし雪斎が生きていれば義元が桶狭間で討死することはなかったであろうといわれている。今川家の人質だった竹千代(のちの徳川家康)の教育係もつとめたという話も残っている。


新野左馬助 にいの さまのすけ (?~1564) 今川家
 今川家臣。諱は親矩。妹は井伊直盛の正室で直虎の母。桶狭間の戦い今川義元が討死し、今川家を離れる者が続出する中でも氏真への忠義を貫いた。井伊家の重臣・小野政次の讒言により井伊家当主・直親が殺された時には姪・直虎と虎松(のちの直政)を保護し井伊家最大の危機を救った。引馬城主・飯尾連竜徳川家康と通じた際、今川方として参加した引馬城攻めで討死したといわれる。


福島正成 ふくしま まさなり (1492?~1536?) 今川家
 今川家の有力家臣・福島家の一族。北条家の猛将で「地黄八幡」と呼ばれて畏怖された北条綱成の父とされる。今川氏輝の死後、梅岳承芳(のちの今川義元)と玄公恵探(義元の異母兄)との間で家督争い(花倉の乱)が起こると、母が福島家の出身だった玄公恵探に味方して敗れ、逃亡先の甲斐で武田信虎に討たれたといわれる。しかし、その生涯には謎が多く、はっきりしたことは分かっていない。